増位山虚無僧保存会

増位山虚無僧の由来
姫路は大和の奈良に次いで、聖徳太子による徳と仁政の大いなる恩恵に授か って来た所であり、麓の白国梅林を包括した霊山・増位山随願寺は、この聖徳 太子がお開きになった、法相宗の由緒深き本山でありました。
また、八百有余年前、平清盛も信仰厚く、再々従者を引き連れ登山したと言 われています。更に、南朝の帝、後醍醐天皇は増位山を中心に近辺諸砦の武将や各山僧を招集され、北朝との戦備を整えられました。
山僧は楠木正成らと力を合わせ、忠誠を尽くしております。この頃の増位山は山内寺領に有明城を始め、36坊を有する大寺院であり、その威容を誇っておりました。約440年前、天正元年(1573年)に随願寺が三木城主の別所長治に攻められ た際、300人を超す僧兵たちが応仁の乱によって荒廃した印南の里、佐土郷へ 楽土を求め落ち延びました。 後に一部の定住を残し、大半の僧達は現在の姫路市材木町西部にある景福寺 山(当時嵐山)へ密集して住み着きました。
このとき生活の具として用いたのが尺八。随願寺の寺僧時代に、茶道などにも精通していた休夢法院から習っていた奏法を頼りに、町へ門付けをしてまわ って生計を保ちました。この僧たちがいつも薦(こも)を身にまとっていたこと から、付近の住民たちからは「薦僧」と呼ばれ、いつしか地区一帯も薦僧町と俗称されるようになりました。
姫路市発行の「姫路市町名字」(昭和31年)では、この地域は大正元年まで「増位町」だったことが明記され、増位山(随願寺)との縁の深さを示す一方、「俗に、虚無僧町(コムソウマチ)といった」と紹介されています。
往時を偲ぶ記録は播磨鑑、その他日記・古文献等に当時の模様を垣間見るこ とができます。その後、豊臣秀吉が三木城を攻め落とし、別所長治と一族の首領のみを刑とし多くの家臣達を助命しました。また随願寺金堂を修復し、軍師黒田官兵衛を 通じ、これら山僧達を増位山に帰山させ、その後は仏心一路に尺八を法器とし て仏法求道に励ましめたということであります。
保存会の創設
増位山虚無僧即ち随願寺の寺僧のルーツを発見した事から始まりました。発見者は尺八の吹奏家であり、また歴史の研究家でもあった岩井省法師(故人) であります。
「虚無僧研究会」のメンバーで同会関西連絡所を務めていた岩井省法師は、この調査の結果から、虚無僧のルーツについて姫路をその発祥地とする仮説を 発表。岩井師は、
①この史実を後世に残す
②虚無僧の霊を供養
③虚無僧の伝 える古典本曲の研鑽
を目的に掲げ同志を募り、『増位山虚無僧保存会』として発足させたものであります。



月例会の実施
(古典本曲の研鑽)
イベントへの参加
(古典本曲の周知)
研修旅行
(所縁の地を訪問・献奏)
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